FE新・紋章の謎二次創作SS

〜約束〜


 アリティア王国の王子マルスが、暗黒戦争と英雄戦争という二つの大きな戦いに勝利したことで、戦乱の続いたアカネイア大陸にようやく平和が訪れた。マルスはこの偉大な功績によって、民衆はもとより各地の王族、貴族たちからも絶大な支持を受け、統一されたアカネイア大陸の統治を任されることとなった。アカネイア連合王国の王位に就いたマルスは、戦争で傷ついた各地の復興を急ぎつつ、かねてより婚約していたタリス王女シーダとの婚礼を挙げた。二人の仲は周囲が羨むほど睦まじく、重責を背負うマルスをシーダもよく支えていた。そんなマルスに仕えるアリティア王国宮廷騎士団もまた、彼の手となり足となりよく働いた。




 マルスとシーダの婚礼から約一年。各地に残る戦争の爪痕はまだ癒えず、宮廷騎士団の仕事が減ることはなかった。戦いに巻き込まれた町や村では、未だに焼け跡や瓦礫の山がそのまま残っている土地も多く、マルスはそうした場所へ優先して騎士団を派遣し、時には自らが現場に赴いて復興に力を注いだ。彼らの懸命な働きの甲斐もあって、各地の復興は順調に進んでいたが、人々の生活が安定の兆しを見せ始める頃になると、今度はまた別の問題も浮上してきた。復興のために人や物の行き来が活発になると、それを狙う盗賊や山賊も出現し始める一方、戦災復興を口実に事業や投資を持ちかけ、金を騙し取る詐欺師なども現れ、そうした連中の討伐や取り締まりなどで、マルスと彼の率いる宮廷騎士団は、極めて多忙な日々を送っていた。そしてそんなマルスの傍らには、近衛騎士クリスとカタリナの姿もあった。

「――しかし、時間が経つのは早いな。あれからもう一年か」

 クリスは意志の強い真っ直ぐな目をした若者で、たゆまぬ鍛錬によって鍛え抜かれた肉体を持ち、マルスの影となって幾多の厳しい戦いを生き抜いてきた。この一年、マルスの護衛を務めるクリスも同様に多忙だったが、日課の訓練を一日も欠かさない徹底ぶりで、プライベートの時間はほとんど無いに等しい状態であった。当の本人は、これも修行だと苦にしていない様子だったが。カタリナは真面目で礼儀正しい性格で、魔法使いと軍師の才を持ち、控えめながら可憐な印象の娘だった。二人は同年代で、英雄戦争直前のアリティア騎士試験で出会って以来、ずっと行動を共にしている間柄である。
 ある日、任務のわずかな空き時間が出来たクリスとカタリナは、宮殿の中庭で話し合っていた。

「本当にあっという間でしたね。むしろ戦争が終わってからの方が忙しくて……こうしてゆっくり喋るのも久々な気がします」

 クリスとカタリナは並んだまま、手入れの行き届いた広い庭園を眺めていた。中庭には石畳の通路があり、その両脇には短く刈り込まれた芝生が敷き詰められている。庭園の一角にはシーダのお気に入りであるというぶどう棚が作られ、他にもハナミズキやライラック、ベゴニアやマーガレット、ロベリアなど様々な植物が植えられ、鮮やかな色の花を咲かせては目を楽しませてくれる。心地よい花の匂いを感じながら、クリスは再び口を開いた。

「そうだな。戦争は終わっても、おれたちの仕事は終わらない。ほとんど休むヒマもなかったが、マルス様にお仕えし、人々のために働く……おれにとっては充実した一年だった。カタリナはどうだ?」

 訊ねられたカタリナは、風に舞う髪を押さえながら、クリスの方を見て微笑む。

「私もです。こうして騎士団の皆さんと、マルス様のために働くことができて、とても幸せです。それに……」

 一旦言葉を句切り、カタリナは少し頬を赤らめながら言う。

「ク、クリスと……その、一緒ですし」

 クリスを見つめるカタリナの瞳には、ただの仲間以上の感情が確かにあった。かつて暗殺組織に身を置き、マルスの命を狙う手引きをしたカタリナは、クリスの必死な説得とマルスの寛大さによって、身も心も救われた経緯がある。以来、カタリナは密かに恩人であるクリスを慕い続けていたが、日々の忙しさと彼女自身の奥手な性格もあって、思いを伝えることが出来ないままであった。

「そうだな」

 と、ごく普通に答えるクリスもまた、異性に対する鈍感さのおかげで、そうしたカタリナの思いにはまるで気が回らないでいた。

「カタリナのおかげで、ずいぶん助かっている。訓練生の頃から、細かい準備や物資の調達は頼りになっていたからな」
「本当ですか? 嬉しいです!」

 クリスに褒められて、カタリナの表情はぱあっと明るくなる。そんな彼女の笑顔が少し照れ臭いのか、クリスも少し視線を逸らして誤魔化す。

「よし、そろそろ戻らないと。これからもよろしくな、カタリナ」
「はい!」

 一足先に去って行くクリスの後ろ姿を、カタリナは憧れの眼差しでじっと見送る。すると近くの通路の影から、鎧を身に纏った赤髪の女性が近付いて来て声をかけた。

「まーたアイツの背中眺めてるのね」
「ひゃっ、セ、セシルさん!? いつ戻られたんですか?」

 セシルはクリスやカタリナと同じ宮廷騎士団の一人で、クリスがリーダーを務める第七小隊の一員でもある。今は彼女の希望もあって、戦災に遭った各地の村を回っては、自ら復興支援や盗賊の撃退などに当たり、アリティア宮殿に戻ってくるのは久しぶりのことだった。

「たった今よ。たまたま通りかかったら、あんた達が話してるのが見えたから、ちょっと様子を見させてもらったわ。でもその調子だと、まだ伝えてなさそうね」
「は、はい……」

 恥ずかしそうにうつむくカタリナの肩を叩き、セシルは気の強そうな顔の眉間に皺を寄せ、顔をグイッと近づける。

「ダメよダメよそんな弱気じゃ。もっと思い切ってぶつからなきゃ!」
「で、でもお互い忙しかったですし、そんな余裕は」

 と言ってモジモジするカタリナに、セシルは辟易した様子で頭を抱える。

「あーもー、じれったいわね! いっそあたしが伝えた方が――!」

 セシルの言葉を聞いたカタリナは、ギョッとして彼女の口を手で塞ぐ。

「ダ、ダメですっ! それだけはダメ……っ!」

 カタリナは誰かに聞かれてないかと慌てて周囲を見るが、近くには誰もいないようで、ほっと胸を撫で下ろす。

「んぐぐ、んんーっ!」

 ふとセシルを見ると、カタリナの手が口と鼻を塞ぐ形になっていて、セシルは窒息しそうになっている。気付いてすぐに手を離すと、セシルはぜえぜえと息を荒げつつ、呆れた視線をカタリナに向けた。

「でも、これでいいの?」
「……いいんです。私は今のままでも充分幸せですから」

 小声でそう答えたカタリナだったが、その言葉は彼女が自分に言い聞かせているようにもセシルは感じた。セシルは肩をすくめ、やれやれと小さくため息をつく。

「ま、あなたがそれでいいって言うなら、仕方ないわね」

 クリスとカタリナの絆については疑いようもないが、カタリナの身の上にはデリケートな事情もある。これ以上の無理強いをして彼女を悲しませるようでは、友人として失格であるとセシルは思い、話題を変えるべく明るい笑顔を見せ、カタリナの手を引いた。

「そうそう、お土産に美味しいお菓子を買ってきたの。一緒に食べましょ」

 セシルはそう言って、有無を言わさず強引に歩き出す。カタリナはちょっと困りつつも、無二の友として自分を気にかけてくれるセシルを嬉しく思うのだった。




 一方クリスは、マルスの自室に呼ばれていた。当然、護衛の任務中ではあるのだが、マルスは時々こうして親しい者を呼んでは、直接言葉を交わすことを好んでいた。それは日頃息をつく暇もなく忙しいマルスにとって、息抜きの意味も兼ねていた。

「失礼します」

 ドアを開けてマルスの部屋に足を踏み入れると、紅茶のいい香りが漂ってくる。窓際に置かれた白いテーブルには紅茶が置かれ、お揃いのデザインをした椅子にマルスは腰掛けている。彼の傍らには、マルスの妻であるシーダが紅茶のポットを持ち、にこやかに微笑んでいる。シーダの長い髪は窓から注ぎ込む日の光を浴びて幻想的に輝き、彼女の美しさを一層引き立てていた。

「やあクリス、よく来たね。君も座ってくれ」
「恐れ入ります」

 クリスは丁寧に返事をすると、大きな音を立てないようにテーブルの席に着く。ほどなくシーダが手ずから淹れた紅茶が用意され、クリスは再び丁寧な礼を述べる。

「シーダ様自ら紅茶を用意してくださるとは、光栄です」
「ふふ、そんなにあらたまらなくていいのよ。今この時間は、身分だとか気にしなくていいんだから」

 笑顔のシーダに合わせるように、マルスも笑顔になって頷く。

「もともとぼくらは、堅苦しいのは苦手でね。タリスにいた頃は、剣術の訓練の合間に、よく二人で野を駆け回ったりしたもんさ」
「まあ、マルス様ったら。でもあの頃が懐かしいわ」

 それからしばらく二人の思い出話が始まり、クリスは仲睦まじく笑い合う主の姿を見つめながら、いつまでもこの穏やかな時間が続けばいいと願った。

「ありがとう、クリス」
「えっ」

 急にマルスから礼を述べられて、クリスは思わず間抜けな返事をしてしまう。

「今こうして笑っていられるのも、全て君たちのおかげだ。騎士団の仲間たちや、ぼくを支えてくれた人々……みんなが力を貸してくれたから、ぼくはこうしていられるんだ」

 英雄王と呼ばれ人々から絶大な支持を集めるマルスだが、彼個人は特に武勇に秀でているわけではなく、戦の才能があるわけでもない。だが不思議とマルスの元には様々な人が集まり、彼のために力を尽くしたいと心から願うのである。それはマルスが自らの弱さを認め、それでいて決して諦めない姿が胸を打つからだとクリスは思うのだった。

「おれもマルス様には感謝してもしきれません。おれに誇りと生き甲斐を与えてくれたのは、マルス様に他ならないのですから」
「生き甲斐、か……」

 ふとマルスは物思いにふけったように考え込んでしまう。クリスが不思議に思いながら次の言葉を待っていると、シーダが手製のクッキーを持って来てテーブルに置く。クリスがそれを一枚手に取って口に運ぶと、バターの香りとほどよい甘さが口に広がり、幸せな気分になる。それからもう一枚を口にしている最中に、シーダが訊ねた。

「ねえクリス。私からも質問なんだけど、あなたには気になる女の子とかいないの?」
「ぶはっ!」

 予想外の質問にむせかえったクリスは、慌てて紅茶を飲んで砕けたクッキーを流し込む。

「ごほっごほっ、きゅ、急になにをおっしゃるんですか」
「わたしはマルス様と一緒になれて本当に幸せよ。たとえお城に住めなくなって、マルス様が普通の人になったとしても、わたしはマルス様と一緒にいられればそれでいいの。そんな人がいるって、素敵なことだと思わない?」
「は、はあ」
「クリスにもそんな人がいるのかなって、ちょっと気になったものだから」

 シーダに差し出されたハンカチで口元を拭き終えると、クリスは不思議そうに訊ねた。

「ええと、それが今の話と関係あるのでしょうか」
「ふふ、どうかしらね。でもクリスは頼れる人だから、きっと回りが放っておかないわよ」
「そうでしょうか。いまいちよく分かりませんが」

 複雑な表情をするクリスだったが、ふとあることを思い出す。

「ただ、気になることはあります」

 顔を上げてあらたまった様子のクリスに、マルスは興味深そうに訊ねた。

「へえ、なにが気になるんだい?」
「カタリナのことです。時々おれになにかを言いかけて、すぐに口ごもったりすることがありまして。体調が悪いわけではなさそうですが、おれの知らない悩みでも抱えているんでしょうか? そうだとしたら、なぜ相談してくれないのかが謎で……」

 大真面目にそう語るクリスに、マルスとシーダは目がまん丸になってしまう。それからしばらく雑談を続けた後、クリスは一礼して部屋を出た。マルスとシーダは互いに顔を見合わせると、少し困ったようにため息をつく。

「やれやれ、思った以上に重症だねこれは。ぼくは機会をみてクリスとまた話すから、君はカタリナを頼むよ」
「はい、マルス様」

 マルスはシーダに淹れてもらった紅茶を口に運び、彼女の横顔を眺めながら言った。

「いつもありがとう、シーダ。君がいてくれなかったら、ぼくは今日まで持たなかっただろう。これからもぼくを支えてくれるかい?」
「ええ、もちろん。わたしはずっとあなたの傍にいますから」

 寄り添ってきたシーダの肩を抱き寄せながら、マルスは束の間の幸福を噛み締めるのだった。




 数日後、シーダは宮殿の通路を一人で歩いているカタリナを呼び止め、単刀直入に訊ねた。

「ねえカタリナ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかしら」
「はい、なんでしょう」
「クリスが言っていたの。カタリナが悩んでいるみたいだって」
「えっ、そうだったんですか? すみません、シーダ様にまでご迷惑をおかけしてしまって」
「ううん、迷惑だなんて思ってないわ。それよりもカタリナの悩みって、もしかしてクリスのことじゃないかしら?」
「……」

 カタリナは黙ったままだったが、特に否定もしない。

「あなたの気持ちはちゃんと伝わっているはずよ。彼を信じて、自分に素直になれば、きっと上手くいくわ」
「そ、そうでしょうか。でも……」

 口ごもるカタリナに、シーダは優しく微笑みかける。そして過去の自分を思い出しながら語り始めた。

「あの戦争の時、わたしはマルス様と一緒に戦ったけれど、マルス様はわたしが戦場に出るのを嫌がったわ。わたしたちの気持ちは通じ合っていたけど……マルス様が危険な戦いをしているのに、自分だけ安全な場所で待っているなんて、わたしにはどうしても出来なかった。だからマルス様の反対を押し切って、一緒に戦うことを選んだの。もちろんマルス様はいい顔をしなかったけど、最後にはわかってくれた。どんなに愛する人でも、時にはぶつかってしまうこともあるわ。それでもわたしは、ただ愛されるのを待つんじゃなくて、大切な人の支えになれる女でいたいの」
「ただ待つんじゃなく……支えに……」
「って、おせっかいだったかしら。カタリナはいつも一所懸命頑張ってるもの」
「いっ、いえ、そんなことはありません。とても大切なお話が聞けました!」
「頑張ってね。わたしもマルス様も応援してるわ」
「はいっ」

 会話が終わると、カタリナはぺこりとお辞儀をして去って行く。最初と比べて晴れやかな顔になった彼女に安堵しつつ、シーダは「もう一人の方が問題かしらね」と、小声で呟くのだった。


 シーダとカタリナが話し合っていたのと同じ頃、宮殿のバルコニーにマルスとクリスはいた。執務の合間、気分転換に景色を眺めたいとマルスが言い、それに付き合う形で護衛のクリスもバルコニーに出ていた。マルスは手すりに両手を置き、眼下に広がる城下町と緑の大地、そして抜けるような青い空をしみじみと眺めていた。

「いい天気だねクリス。こうして美しい景色を眺めていると、戦いの連続だったあの頃が、遠い昔のように思えてくるよ」

 マルスは眼を細め、風に乗って羽ばたく鳥の姿を追っている。

「全てはマルス様を始め、皆が力を合わせて平和を勝ち取ったからです。その一員に加われたことは、おれの誇りです」
「ぼくも同じだ。この国にも色々なことがあった……勇者アンリがアリティア王国を作った後も、国と国との争いは絶えず、いつもどこかで悲しい出来事が起こっていた。それがぼくの代で大陸がひとつにまとまり、誰もが笑って暮らせる世の中になろうとしている。それが本当に嬉しいんだ」
「マルス様……」
「そこでクリス、ひとつ質問をしていいかな」
「はい、なんでしょうか」
「きみにとっての幸せとは、一体なんだい?」
「もちろん決まっています。マルス様にお仕えし、その身を守ること。騎士としてこれ以上の幸せはありません」
「……ありがとう。その気持ちはとても嬉しい。だがクリスには、ぼくへの忠義以外の幸せも見つけて欲しいんだ」
「忠義以外の幸せ、ですか……しかし」
「きみがぼくのために、どれだけ尽くしてくれたかはよく分かっている。だけど国がひとつにまとまり、平和に向かって歩き出した今、ぼくが出来ることはそう多くない。いずれぼくがいなくなっても、世界は正しい方向に進んで行けるようになるだろう。仮に今、ぼくがいなくなったとしたら、クリスはどうするつもりだい?」
「それは……」
「みんながぼくを思ってくれるように、ぼくもみんなが幸せになって欲しいと思っている。君主や騎士としてではなく、一人の人間としてね。きみが気付いていないだけで、それは案外身近にあるのかもしれないよ」
「……」

 クリスはそれ以上答えられなかった。幼い頃からマルスに仕えることを目標にし、ひたすら己を鍛え続けてきた彼にとって、他の名誉や幸せなど考えもしなかったのである。黙り込んでしまうクリスに目をやりながら、マルスは少し笑って言った。

「さて、そろそろ戻らないと。この話は君への課題にしよう。いつか答えが見つかったら、また聞かせて欲しい」
「は、はい」

 笑顔で宮殿へ戻るマルスの後を付いていきながらも、クリスはマルスの質問の意味を掴めないままでいた。任務時間を過ぎ、宮廷の人々が寝静まった頃、クリスも騎士団の控え室に戻っていた。簡素なベッドに身を投げ出し、天井をじっと見つめたまま、彼はなかなか眠れないでいた。昼間の話が妙に気になって、眠ろうとしても目が冴えてしまう。仕方なくクリスは身を起こし、外の空気を吸って軽く身体を動かせば眠れるだろうと部屋を出た。夜の宮殿は静まり返っており、通路に沿って灯された松明の炎と、所々に立つ警備兵の姿があるだけだった。クリスは近くの警備兵に声をかけ、中庭に向かって歩いていた。中庭まで辿り付いた時、庭園を挟んだ向かいの通路にカタリナの姿を見つけ、クリスは彼女に近づいて声をかけた。振り返ったカタリナは、分厚い本や書類を胸に抱えたままだった。

「まだ起きていたのか。もう遅いぞ」
「あっ、クリス」
「書類の仕事か?」
「はい、どうしても明日の朝までに仕上げないといけなくて」
「大変だな。あまり無理をするなよ」
「平気です、ついさっき終わりましたから。クリスこそ、こんな時間にどうしたんですか?」
「……ちょっと眠れなくてな」
「珍しいですね。なにか悩みごとでも?」
「まあ、そんなところだ」

 クリスの様子が普段と違うのを察し、カタリナは真剣な顔つきで言う。

「あの、私で良ければ相談に乗りますから。力になれることがあれば、言ってくださいね」
「ああ、ありがとう」

 じっと自分の顔を見上げるカタリナの顔は、月明かりに照らされて幻想的な美しさがあった。クリスは照れ臭くなり、顔を赤くして視線を外す。

「そうだな。せっかくだし、少し話を聞いてくれるか?」
「はいっ」

 クリスはカタリナに、昼間マルスから訊ねられた質問のことを話した。

「――おれはマルス様の質問に答えられなかった。あれからいくら考えても、よく分からなくてな」
「マルス様にお仕えする以外の幸せ、ですか。どうしてマルス様は、急にそんな質問をなさったんでしょう」
「わからん。おれになにかを伝えようとしているのかも知れんが……カタリナには、そういうものはあるのか?」
「えっと、私は」

 クリスに訊ねられ、カタリナは急に恥ずかしそうな仕草をし、落ち着きなく目線を泳がせる。

「はい、あります……」
「そうなのか。良ければ聞かせてもらっていいか?」
「えっ?」

 カタリナは言葉を濁したが、時間が経つと気持ちも落ち着いたのか、どこか憂いのある表情で星空を見上げた。
 
「時々、昔のことを思い出すんです。ノルダの町で虐げられて、いつも面白半分にぶたれて、いっそ死んでしまったほうが楽になるんじゃないかって、あの頃は何度も思いました。それからエレミヤ様に拾われて、後はクリスも知っている通りです。みんなを裏切ったあの時、私はもう生きる資格が無いと考えていました。クリスを騙して、マルス様を傷つけようとして……でも、クリスは私を最後まで信じてくれて、あの暗い場所から連れ戻してくれました。マルス様も、私に生きろと言ってくださいました。だから私は……今こうしてここに居られるだけで、本当に幸せなんです。これ以上の幸せを望んだら、きっと罰が当たっちゃいます」

 彼女の語った言葉は、紛れもなく本心からのものだった。クリスもそれは十分に感じ取っていた。

「そうか……」

 優しげな目をカタリナに向けて、クリスも頷いた。暗殺組織から連れ戻したばかりの彼女は、罪の意識に苛まれ、必死に許しを求める危うさがあった。それも今では落ち着き、年頃の娘らしい表情も見せるようになり、クリスもそんな彼女の姿を好ましく思ってはいたのである。

「なかなか難しいな、幸せというやつは。おれはずっと、祖父の教えを守って生きてきたからな。マルス様に仕える以外の道を、真剣に考えたこともなかった」
「分かります、その気持ち。私も同じでしたから」
「案外似た者同士だな、おれたちは」
「ふふ、そうかもしれませんね」

 それからしばらく二人は、無言で夜空を見上げていた。いくら考えても見つからない答えを探しているうちに、クリスはふとあることを思い出す。

「そういえば、シーダ様に変な質問をされたな」
「どんな質問ですか?」
「気になる女の子はいないのかと訊ねられたんだ。さすがにどう返事をしていいのかわからなかったが……カタリナには、そういう相手はいるのか?」
「えっ、えっ……? あ、あの、私は、その……」 

 カタリナは急にモジモジして要領を得なくなり、声も小さくなって聞き取れない。様子がおかしい彼女が心配になって、クリスはカタリナに顔を近づけて彼女の額に手を当てた。

「熱でもあるんじゃないのか? さっきから顔が赤いぞ」
「あああっ……クリス、か、顔が、顔が近いです……っ!」
「そんなことを言ってる場合か」
「だっ、大丈夫、私は大丈夫ですからっ」

 カタリナはのぼせたように真っ赤になり、クリスの腕から逃れるように離れた。それからクリスに背を向けて深呼吸を何度か繰り返して振り返ったが、相変わらず落ち着かない様子で、両目も潤んだままだった。

「本当に大丈夫なのか? 呼吸も乱れているようだが」
「へ、平気です。あの、クリス……私からも、聞いていいですか?」
「ん、ああ」
「その、クリスは……」

 カタリナはそこで言葉を詰まらせ、しばらく黙り込んでしまう。クリスが心配になって「大丈夫か?」と訊ねると、彼女は意を決したように震える声で言った。

「クリスは……あの、私のこと……どう、思っていますか?」

 カタリナにとっては、精一杯勇気を振り絞ってのことだったが、クリスは特に考える様子も無く、

「カタリナは大事な仲間だ。それがどうかしたのか?」

 と、さらりと言ってのけてしまう。カタリナはうつむき、クリスと顔を合わせないまま肩を落としてしまう。

「そうですよね。ヘンなことを聞いて……ごめんなさい」
「いや、謝る必要はないが……カタリナ?」

 その時、クリスはカタリナの頬に、月明かりを反射しながら伝う一筋の雫を見た。カタリナはそのまま背を向け「それじゃあもう遅いですから。おやすみなさい」と言い残して、走るように立ち去ってしまった。取り残されたクリスはしばらくその場で立ち尽くすばかりであった。




 あの夜以来、カタリナの態度がぎこちなくなってしまったことが、クリスの新たな悩みとなっていた。声をかければ返事もするし、任務についての会話は普通に出来るのだが、いつものように気軽な会話をしようと思っても、カタリナはなぜか辛そうな表情を浮かべ、そそくさと去ってしまうのである。クリスが悶々と悩みながら宮殿を歩いていると、侍女を連れて中庭のぶどう棚を手入れしているシーダを見つけた。

(シーダ様なら、理由がわかるかもしれないな)

 クリスはシーダの傍に近付くと、挨拶をしてからカタリナの件について相談に乗ってもらえないかと切り出した。侍女の手前、プライベートな話題はあまりよくないということで、しばらく時間を置いてから、クリスはシーダの部屋を訪れ、カタリナの態度が変わってしまった夜のことを話した。

「――もしかして、知らないうちに傷付けるようなことを言ってしまったのでしょうか」

 シーダは木製の茶色い椅子に腰掛け、美しい刺繍を縫いながら、微笑みを浮かべてクリスを見ている。

「ふふ、ずいぶんカタリナを気にしているのね」
「同じ騎士団の仲間ですから。当然のことだと思いますが」
「本当にそれだけ?」
「……どういう意味でしょう」
「確かに騎士見習いの頃からの仲間だもの、心配するのは当然かもしれないわ。でも、あなたが彼女を気にしているのは、それだけが理由じゃないはずよ」

 シーダは刺繍の手を止め、真面目な顔つきでクリスに言い聞かせる。

「あなたは戦争の時、一度は敵になったカタリナを命がけで連れ戻した。自分の命だって危ないのに、最後まで彼女を信じていたじゃない。それは簡単に出来ることじゃないわ。クリスも本当は分かっているのよ。ただ自分の気持ちに気付いていないだけ」
「おれの、本当の気持ち……」
「もっと回りを見て、クリス。それから自分の気持ちと向き合うの。そうすれば、きっと答えは見つかるはずよ」

 シーダは再び手を動かし始め、自分が言えるのはここまでだと告げた。クリスは彼女に深く頭を下げ、そっとシーダの部屋を出た。宮殿の通路を歩いている間、クリスの足取りは軽かった。もう少しで答えが見つかる予感がして、心に立ちこめていた暗雲が晴れていくような気分だった。そうして騎士団の詰め所まで戻って来た時、廊下の壁にもたれて待っていたセシルがクリスに声をかけた。

「戻って来たわねクリス。ちょっと話があるんだけど」

 やけに不機嫌そうな顔で、セシルは言った。彼女は人が来ない宮殿の端までクリスを連れてくると、眉をつり上げて迫った。

「あんた、カタリナになんかしたんでしょ」
「な、なにを言い出すんだいきなり」
「いきなりじゃないわよ、まったく。カタリナったら、しばらく前から塞ぎ込んじゃってさ、わけを調べてみたら、あんたが絡んでるらしいじゃない」
「それは……」
「図星って顔してるわね。さあ白状しなさい、カタリナになにをしたのよ! 返答次第じゃただじゃおかないからね!」

 袖をまくり上げて凄むセシルの迫力には、思わずクリスも後ずさってしまう程である。

「ま、まて、落ち着けセシル」

 クリスは仕方なく、例の夜の会話をセシルに伝えた。すると彼女は「はあ!?」と大声を出し、ますます腹を立ててクリスに掴みかかってきた。

「あんたねえ、そんな言い方したらカタリナが落ち込むのは当たり前でしょ! ほんっっっとに剣を振る以外は鈍いんだから!」
「いや、面目ない。しかしおれがどう鈍いのか、わかりやすく説明してくれないか?」

 クリスの返事にセシルは両目をまん丸にし、大きなため息をついてがっくりと肩を落とす。

「はあ、こりゃ苦労するはずだわあの子も……」
「どういう意味だ?」
「マルス様第一で任務に忠実なのは立派だと思うけどさ……そのせいでちょっと視界が狭くなってるんじゃないの?」
「む……似たようなことをシーダ様にも言われたばかりだ」
「私たちは騎士だもの。マルス様を第一に考えて守るのは当たり前。だけどあんたがそれで幸せでも、他のみんなが同じように感じてるとは限らないでしょ」
「……!」

 クリスは雷に打たれたような衝撃を憶え、しばらく動けなかった。今になってようやく、マルスやシーダが言っていた言葉の意味が理解出来たのだ。

「クリスがマルス様を一番に思ってるように、クリスのことを一番に想ってる誰かだっているはずよ。そういう誰かのこともちゃんと気付いてあげなきゃ。心当たりはあるんでしょ」

 セシルは呆れた顔をしつつも、クリスの肩を強く何度も叩いて最後に言った。

「どうするかはあんたの自由だけど、ちゃんとけじめはつけなさいよ。じゃあね」

 セシルが戻っていった後も、クリスは拳を握り締めたままじっと立っていた。自覚していなかったとはいえ、自分の愚かさに腹が立った。そのせいでどれだけ回りを心配させ、そして傷付けてしまったか――自分への怒りを決意に変え、クリスは歩き出す。彼はマルスの元へ赴き、そして見つけ出した答えを告げた。マルスは満足そうに頷くと、いつまでも微笑みを絶やさなかった。




 それから数ヶ月の間、クリスは任務の合間に王宮の外に出るようになった。宮殿からほど近い丘に新たな屋敷を建てることが決まり、その建築にクリスも参加することになったのである。石やレンガを運び、積み上げては形を作る――そうした作業を半年近くも繰り返して完成した屋敷は、外見こそ質素だが、頑丈で温かみのある建物だった。屋敷の完成から数日後、クリスはカタリナをある場所に呼び出した。それはアリティア宮殿の近くにある、雑木林の中だった。クリスが先に林の中で待っていると、彼の背後から落ち葉を踏む足音が近付いて来る。クリスが振り返ると、不思議そうな顔をしたカタリナが、じっとクリスを見つめていた。

「お待たせしました。こんな場所に呼び出したりして、一体どうしたんですか?」
「ああ、カタリナに話しておきたいことがあってな。少し長くなるかもしれないが、平気か?」
「はい、大丈夫です」
「カタリナ……おれたちが最初に出会った日のこと、憶えているか?」
「はい。あの時は急いでて、クリスとぶつかってしまって。それからすぐに試験が始まって、クリスは私の分まで頑張ってくれましたね」
「それからおれたちはチームになった。ロディやルーク、ライアン、セシル。それにシーダ様も加わって、おれたち第七小隊は、あの厳しい訓練をくぐり抜けたんだ」
「懐かしいですね……どれも私にとっては、大切な思い出です」

 しみじみと過去を思い出すカタリナに、クリスも頷く。

「ところでカタリナ、この場所に見覚えはないか?」
「そういえばここは……もしかして」
「ああ。受勲式の前日、お前が泣いていた場所だ。あの時はわけを教えてもらえなかったが」
「はい……」

 受勲式の日、暗殺者としての使命を全うすべくカタリナは行動した。そしてマルスの暗殺に失敗した彼女は、そのまま姿をくらましてしまい、二人が再開するまでには長い時間の隔たりがあったが、クリスはカタリナのことを忘れたことはなかった。

「あの涙が、ずっと心に引っかかっていた。離れている間、おれの知らないところでカタリナが泣いているんじゃないかと……だからお前とまた出会えたら、必ず連れ戻すと心に決めていた。あの時はただ連れ戻すことだけを考えていたが、今ならその理由がはっきりとわかる」

 クリスは一歩踏み出し、共に過ごした日々の全てを思い出しながら言った。

「おれたちは同じ夢を見た。同じ苦しみも、同じ喜びも分け合った仲間だ。けどそれだけじゃない……おれはカタリナの笑顔が好きだった。なのにおれが馬鹿なせいで、ずっとお前の気持ちに気付いてやれなかった。お前がおれの隣でどれだけ支えてくれていたのか、今になってやっと分かったんだ」
「クリス……」

 カタリナは両目に涙を浮かべ、何度もそれを指で拭う。クリスはカタリナの前に立つと、涙ぐむ彼女に手を差し伸べる。

「行こう。見せたい物がある」

 それから十分ほど歩くと、二人は真新しい屋敷の前に辿り着く。クリスが建設を手伝った、あの屋敷だった。屋敷には程よい広さの庭もあり、小さな花が植えられている。壁も窓も新しい屋敷を見上げながら、カタリナは「素敵なお屋敷ですね」と声を上げた。

「良かったら中も見てみるか?」
「えっ、いいんですか?」

 聞き返すカタリナに、クリスははっきりと頷く。

「大丈夫だ。ここは建てたばかりで人は住んでいないし、許可も取ってある」
「じゃあ、ちょっとだけ。なんだかわくわくします」

 クリスに案内されて屋敷に足を踏み入れたカタリナは、外観と同じように真新しい家具や調度品を、感心したようにあれこれと眺めていた。ダイニングルームには、黒く堅い木で作られたテーブルとお揃いの椅子が並べられ、仕上げも艶があって手触りも良い。キッチンにも必要な調理器具が揃い、リビングにも大きくて柔らかいソファがある。他にも使いやすく派手すぎない調度品やインテリアを見て、カタリナは「まるで夢に出て来るような、理想のおうちです」と目を輝かせていた。一階を一通り見て回り、二人は二階へ上がる。寝室にはシンプルなベッドがあり、大きな窓からはアリティア宮殿の姿を眺めることが出来る。カタリナが窓を開けて新鮮な空気を部屋に入れていると、クリスが彼女の傍に近付いて訊ねた。

「カタリナ、お前から見てこの屋敷はどうだ?」
「ええと、派手さはないですけど、作りは頑丈ですし、家具も素敵でいいと思います。宮殿からも近いですし、なにかが起きてもすぐに飛んでいけますね。それにどことなく、タリスの建物にも似ている気がします」

 興味深く建物を眺めているカタリナに、クリスは続ける。

「実を言うと、この屋敷にはおれが住むことになっている。今までの働きに対する報酬という形で、マルス様が建ててくださったんだ」
「そうだったんですか。こんな立派な屋敷を頂けるなんて、一所懸命働いた甲斐がありましたね」
「ああ。だがこの家の持ち主はおれ一人じゃない。ここが完成したら、そのもう一人に紹介するつもりだった。だから連れてきたんだ」
「え……それって、あの……えっ?」

 突然の話に戸惑うカタリナをじっと見つめ、クリスは偽りのない気持ちを言葉に乗せて言う。

「おれと一緒に暮らさないか。ここが……おれたちの家になるんだ」

 その時の気持ちを、息が止まりそうだったと後にカタリナは言った。彼女はクリスの言葉を聞いた後、両手で顔を隠したまま、ポロポロと大粒の涙をこぼしながら頷いた。

「は、はい……!」

 クリスは泣きじゃくる彼女をそっと抱きしめ、髪を優しく撫でた。今まで自分のために尽くしてくれた彼女への、せめてもの慰めになればと思った。

「すまなかったな。おれのせいで、今までずいぶん辛い目に遭わせてしまった」

 クリスの胸に顔を埋めたまま、カタリナは首を振り、涙をいっぱいに浮かべた瞳でクリスを見る。今までずっと秘めていた想いが、一気に溢れて胸がいっぱいだった。

「ううっ……こ、これって、ゆ、夢じゃありませんよね……? 嘘じゃ……ないんですよね……?」
「ああ、本当だ。あの日約束したはずだ。たとえどんなことがあっても、おれはお前の味方だと」
「はい……」
「これからもずっと、おれの……おれの隣にいてくれないか」
「はい……!」

 カタリナは幸せすぎて言葉が出ず、ただ何度も頷いていた。




 それから一ヶ月ほど経った頃、アリティアの小さな教会で結婚式が行われた。新郎新婦の知人だけを集めた小さな式だったが、その場にいた誰もが幸せそうに笑っていた。新たな夫婦を祝福する人々の中には、こっそりと宮殿から抜け出したマルスとシーダの姿もあったという――。